【Art Blakey】



10代後半からバンドで活動しニューヨークへ進出。一説には当初はピアニストであったが、ある時からピアノを断念しドラマーに転向した。ピアニストからの転向を伝えるエピソードの中に次のようなものがある。
ある夜、アート・ブレイキーが演奏するクラブに、クラブのボス(マフィアとの説も)がピアニストを連れてきて弾かせたところ、アートよりも優れた演奏をしたため、ボスはアートに「おまえはタイコでも叩いてな!」と拳銃をちらつかせながら脅したというものだ。
また、ドラムの腕も当初はたいしたことはなく、バンド仲間からはバカにされていたが、盟友であるトランペッターのディジー・ガレスピーがアドバイスをし、みるみるその腕を上げたという話もある。
1944年からビリー・エクスタインの楽団へ入り、1940年代後半からマイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらと共演後、1954年から1955年にかけてホレス・シルヴァーと初代のジャズ・メッセンジャーズを結成。
クリフォード・ブラウンやルー・ドナルドソンらを擁してジャズ・クラブのバードランドに出演して人気を博した。
1956年にシルヴァーが脱退した後も、ブレイキーは晩年までメッセンジャーズのリーダーとして活躍し、日本でもファンキー・ブームを起こした一人である。この頃の代表曲は、モーニン、ブルース・マーチである。
ジャズ・メッセンジャーズは基本的に2管または3管のフロント+3リズムのコンボ形式のバンドである。
ドラマーとしての一番の特徴はメリハリのあるバッキング(ブラシでの寄り添うようなプレイから激しく煽る「ナイアガラロール」までの振幅)にあり、ことにシンバルレガートの滑らかで美しい音色は特筆される。
また、アフロ・キューバンリズムをドラムセットで表現したパイオニアとしても記憶されるべきだろう。ただし晩年の録音では、腕力や感性の衰えがかなり目立ち、リズムキープもおぼつかないようになっていった。







【Lionel Hampton】



ライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton、Lionel Leo Hampton、1908年4月20日 - 2002年8月31日)は、アメリカのジャズ・ミュージシャン。ジャズ・ヴィブラフォンの第一人者として知られる。
アラバマ州バーミングハムまたはケンタッキー州ルイビル生まれ。ドラマーとしてミュージシャンとしてのキャリアを始めた。ヴィブラフォンとの出会いは1930年にルイ・アームストロングのレコーディングに参加したとき。
スタジオに置いてあったヴィブラフォンを弾いてみるようにアームストロングから言われたのがきっかけという。
1936年、ハンプトンはヴィブラフォン奏者としてベニー・グッドマンのバンドに参加する。これはジャズ楽器としてのヴィブラフォンの存在を広く知らしめただけでなく、人種の壁が厚かった時代に白人の人気バンドに黒人のミュージシャンが参加したという点でも画期的な出来事であった。
その後もハンプトンは自身のリーダーバンドを率いて精力的に活動し、ジャズ・ヴィブラフォンの第一人者としての地位を確立。バンドからは多数の有名ジャズ・ミュージシャンを輩出した。またボーカリストとしても明るいエンターテイナーぶりを発揮して人気を博した。






【Milt Jackson】



ミルト・ジャクソン(Milt Jackson、1923年1月1日 - 1999年10月9日)は、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト出身のジャズ・ビブラフォン奏者。
1923年、ミシガン州デトロイトに生まれる。デューク・エリントンやカウント・ベイシーを聴き、ジャズに興味を持つ。特にライオネル・ハンプトンの影響を受ける。
トランペット奏者のディジー・ガレスピーに招かれ、ニューヨークへ行き彼のバンドでプレイする。バンドを去った後はセロニアス・モンク、チャーリー・パーカー、レイ・ブラウンらと共演を重ねる。
1951年にミルト・ジャクソン・カルテットをジョン・ルイス(ピアノ)、パーシー・ヒース(ベース)、ケニー・クラーク(ドラム)と結成。翌年にモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)とグループ名を変える。以降はMJQのメンバーとして活動する。
1974年7月、MJQを解散するが、11月には再び集まってコンサートを開く。1981年には日本武道館でコンサートを行なう。1999年没。






【Ron Carter】



ロン・カーター(Ron Carter, 1937年5月4日 - )は、アメリカ合衆国のジャズ・ミュージシャン、ベース奏者。元ニューヨーク市立大学シティカレッジ教授。アフリカ系アメリカ人。
1937年、アメリカミシガン州出身。1959年、イーストマン音楽学校卒。1961年、マンハッタン音楽学校修士課程修了。2004年、バークリー音楽大学より名誉博士号を授与される。ニューヨーク市マンハッタン区ハーレムにあるニューヨーク市立大学シティカレッジ音楽学部にて、20年以上教壇に立つ。
バッハなどに傾倒し、初めチェロを習い、のちにコントラバスに転向。クラシックのコントラバス奏者を目指して1日8時間に及ぶ猛練習をするも、人種差別の壁もあってオーケストラに入団できなかった。一方でジャズベーシストとしての活動を開始し、1959年にチコ・ハミルトンのグループでプロデビュー。
また、ポール・チェンバースやレイ・ブラウン、サム・ジョーンズなどの名ベーシストとの交流の中で自己を確立し、キャノンボール・アダレイ、ボビー・ティモンズなどのグループに参加。その柔軟で奔放なプレースタイルが、モード・ジャズの表現を模索していたマイルス・デイヴィスの目にとまり、
ポール・チェンバースに代わるベーシストとして抜擢される。他のメンバーが繰り出すモード・イディオムラインに対し、クロマッチックな音選びで絶妙の相性を見せたカーターは、1960年代のマイルス・ミュージックの屋台骨を支える重要な役割を果たす。
ジャズ界の趨勢がモード・ジャズからフュージョンに移行しつつあった1960年代終盤、マイルスのグループを離れ[1]、以降、主に著名ミュージシャンのセッションのサイドマンとして無数のレコーディングに参加。
70年代にはハービー・ハンコックによるV.S.O.P.クインテットやハンク・ジョーンズによるグレイト・ジャズ・トリオなどのバンドにも名を連ねている。 一方で、ピッコロ・ベースという新楽器を開発し、ソロ楽器としてのベースの可能性を追求した。ピッコロ・ベースはコントラバスより小さくチェロより大きい楽器で、コントラバスの4本の弦のうちE弦(最低音の弦)を廃して、最高音であるG弦の上にさらに4度上のC弦を配したものであり、チェロ同様に椅子に座って演奏する。
以降、ベース、ピッコロ・ベースを持ち替えて多くのセッションをこなす。ピッコロ・ベースにおいては自己の9人編成コンボであるロン・カーター・ノネットの結成、そしてベースでもグレート・ジャズ・トリオをはじめとするレギュラーグループや、トミー・フラナガン、ローランド・ハナ、シダー・ウォルトン、ゴンサロ・ルバルカバ、
ハンク・ジョーンズ、ジム・ホール、ハービー・ハンコック、ヒューバート・ロウズといった名手と競演を重ねる。また、アントニオ・カルロス・ジョビンのセッションにも参加したことから、ボサノヴァ音楽への傾倒と理解も厚い。
ロン・カーターのベースは、極めて個性的なその音色と音の運びに特徴がある。音色については、一音聴いただけで「ロンだ」とわかるほどの強烈な個性であるが、これは、ラベラ社製のブラックナイロン弦とバーカス・ベリー社 のピックアップを使っている時代に印象づけられたものである。
マイルスバンド参加前の1960年代初期のジャキ・バイアードのバックを勤めていた時期は、個性が感じられない演奏をしている。一方、音程がよくない、高音域が得意でない、クラシック奏者を目指していた割にはアルコ(弓)奏法が不得手など、楽器演奏技術に対しては低い評価もあり、
アメリカのジャズタイムズ誌では「最も過大評価された音楽家」として辛辣な批評を受けたこともある。
日本でも非常に人気の高いジャズベーシストであり、来日経験も極めて豊富である。日本人ジャズメンとの競演も多く、また、アメリカ人のみによるセッションでも日本のレコード会社の企画で製作されることも多い。こういった、日本人による彼の芸術への理解度の高さもあってか、本人もなかなかの親日家である。
また過去には1980年代にテレビで放映されたサントリーホワイトのCMでハービー・ハンコックらと共演したり、栄養ドリンクのテレビCMに親子で出演もしている。




【Manhattan Jazz Quintet】



1984年デビッド・マシューズがリーダーとなり、N.Y.の最強のメンバー5人により結成した夢のジャズ・クインテット。2009年には結成25周年を迎える。 '80年代の新しいメイン・ストリーム・ジャズ・グループとして誕生。
第一作「マンハッタン・ジャズ・クインテット」と第二作「枯葉」は大ベストセラーになり、以降20年以上に渡りオリジナルアルバムは20枚以上をリリース、ナンバーワン・グループの地位を築いている。
デビッド・マシューズ(p, arr)とルー・ソロフ(tp)は結成以来不動。現在はアンディー・スニッツアー(ts)、チャーネット・モフェット(b)、ビクター・ルイス(ds)という世界最高峰のコンビネーション、ゴージャスなサウンドを誇る。









r>